瀧廉太郎記念館
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◎ 廉 太 郎 旧 宅
 瀧廉太郎が12才から14才までの2年半、多感な少年時代を過ごしたのがこの家です。
 瀧家は代々日出藩(現在の大分県速見郡日出町)の家老をつとめた名門で廉太郎の父 吉弘は同藩の家老をつとめた後、上京し、大久保利通・伊藤博文の右腕として中央で活躍した人でした。
 明治24年、父 吉弘は大分県直入郡長に任命され、12月の半ば、廉太郎は家族とともに竹田に移りました。その折、瀧 家に官舎としてあてがわれたのがこの家でした。この家は、もともと岡藩主中川家の家臣をつとめた岩瀬家の由緒ある屋敷で、当時は300坪近い大きな侍屋敷でした。
 当時の竹田は、岡藩の城下町、九州の小京都として、しっとりとした風情をたたえた、文化の香り高い町でした。「遊芸の町」とも言われ、茶道、華道はもちろん、多くの人が謡曲、仕舞、三味線、琴などをたしなんでいました。

廉太郎は竹田高等小学校に通いながら、城下町のさまざまな響きや風景、地域の素晴しい自然に囲まれ、この竹田の町で音楽の道に進むことを決心したのです。
 家の前の溝川や裏山の竹薮の響きを聞き、芝居や謡曲の好きだった父親、ヴァイオリンをたしなんだ姉のいる家族と暮らしたこの家は、廉太郎の感受性を豊に育て、後に数々の素晴しい音楽をつくりだす源の一つとなりました。
 この旧宅では、廉太郎が聞いていたと思われる、当時の家や庭の音、竹田の町の響きを復元するいくつかの工夫をしています。  (滝廉太郎記念館案内板より)
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